加藤清正ゆかりの寺院

清正ゆかり寺院

加藤清正が「妙」「法」「蓮」「華」「経」の五文字を冠した五つの寺を建立しています。

25才の時に、父の菩提を弔うため難波に本妙寺を建立し、その後の越後水俣の法華寺、豊後鶴崎の法心寺、長崎の本蓮寺、肥前大村の本経寺がそれです。ちなみに、本妙寺は肥後の領主となった後にわざわざ熊本城下に移しました。

この他、京都の本圀寺の三十三番神堂、東京池上本門寺の石段此経難持寺を建立しています。また、神社も造営されていますが、ここでは清正公ゆかりの寺院をご紹介します。

本妙寺(熊本県)

住 所熊本県熊本市花園4-13-1
TEL096-354-1411
FAX096-356-8110
駐車場有り

法華寺

雲鶴山 法心寺(大分県)

法心寺は、慶長6年(1601)肥後(熊本県)のお殿さま加藤清正公によって建立されました。 当時、鶴崎は肥後の飛び地になっており、交通の重要なところでした。参勤交代の時など熊本城を出て、阿蘇を越え、鶴崎の港から出港し、瀬戸内海を経て海路、大阪・江戸へ向かったのです。 清正公は、日蓮宗のたいへんな信者でした。自分の寝泊まりする鶴崎の地に「南無妙法蓮華経」のお題目をお唱えする道場がなくてはということで京都本圀寺常林院日榮上人を招き、法心寺を建立されたのです。 法心寺には清正着用のヨロイや遺品の数々が今でも残っています。 また、本堂の前には大分市指定の名木「いちょう」があり別名「逆さいちょう」といわれ、本堂建立の際清正公が持っていた杖を地面に突き差したのものが、今の大木となり、枝が逆さに出ているのだという伝説があります。 清正が慶長16年に病死して以来、追善供養の法要が行われるようになり今では二十三夜祭といい夏の風物詩として親しまれています。

本蓮寺(長崎県)

肥前大村の本経寺(長崎県)

大村藩第18代大村純忠はキリシタン大名として有名であり、長崎開港の大恩人であるが、その信仰の故に長崎の要所を宣教師に解放してキリシタン禁止の要因を成した。  その子第19代喜前は、父の信仰の影響を受けながらも、幼少の頃は人質として他国(日本の他の国)に在ることが多かった為にキリシタンとの縁薄く、 長じて後は加藤清正との親交を通じて、むしろ法華経との深く結んでいました。 関ヶ原の戦い後に、加藤清正の指導によって、英断を以ってキリスト教を廃し日蓮宗に帰依しました。 喜前は菩提寺の建立を発願し、熊本本妙寺の法性院日真上人を開山にお願いした。 そこで日真上人は本瑞院日恵上人を大村に派遣し、慶長10年(1605)加藤清正の設計を得て工事を起こし、 慶長13年(1608)間口9間、奥行き12間の大本堂を中心に七堂伽藍が完成した。同年8月寂照院日乾上人の来駕をこうて開堂大法要を厳修、萬歳山本経寺と号した。  この後漸次領内に末寺が建立され、大村八ヶ寺と称さるるに至り、本経寺は中本寺となる。爾来、日蓮宗の宗風大いに起こり、「大村法華」と称さるるに至った。  然るに安永7年(1778)不慮の火災により全堂ことごとく消失。その後、9年を経て、天明7年に再建されて今日に至る。

正悦山 妙行寺(名古屋市中村区)

大光山本圀寺の三十三番神堂(京都府)

天澤寺/丸岡城跡(山形県)

山形県内陸部と日本海側の庄内地方を結ぶ旧六十里越街道に対する要地に丸岡地区があります。鎌倉時代より、丸岡地方を支配する武藤氏の支城がおかれていました。 その丸岡にある天澤寺は、加藤家終焉の地としての史実とともに、「清正公が眠る菩提寺」として、全国から多くの参拝客が訪れます。参道では、禅の思想を具現化した理想的な人間像という十六大阿羅漢が出迎え、加藤清正公の墳墓(五輪塔)や清正閣をはじめ、綴錦織の世界的巨匠 遠藤虚籟の糸塚などがあり、秋深くなる頃、境内の大いちょうの木が黄金の美しい彩りを放ちます。 天澤寺の写真

天澤寺: 山形県鶴岡市丸岡字町の内36
電話 0235-57-2252

加藤清正公墓碑は、丸岡の人々から「清正公様(セイショウコウサマ)」の愛称で呼ばれ、毎年7月下旬には、「清正公祭」が行われます。 天澤寺・丸岡城跡案内図 丸岡城は、鎌倉時代から天正年間まで、当地方を治めた武藤氏の時代、大梵字(鶴岡)の南方、六十里越口と大鳥越口のおさえの要地として、後に武藤家尾浦城主となった丸岡兵庫頭義興が在城しました。武藤家のあと上杉氏、さらに最上氏が領有しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により城の楼閣は取り払われました。最上氏改易の後、元和8年(1622年)に酒井氏領となりました。 寛永9年(1633年)、加藤清正公の嫡子・肥後五十四万石の領主加藤忠廣公が幕府に領地を没収され、庄内藩酒井氏に預けられました。酒井氏は、この城跡に忠廣公と生母正応院様の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築しました。この館が丸岡大火によって消失したため、忠廣公が京都にあった館を移築し、承応2年(1653年)忠廣公逝去まで居住しました。忠廣公没後、領地は幕府御領となりました。 天澤寺の南側に外堀を挟んで県指定史跡「丸岡城跡」があります。史跡公園として整備され、城跡の広さは約2ヘクタールで、発掘された建物基礎石遺構や庭園池の復元、石敷き道路、水路跡などを露出展示し往時の丸岡城を偲ばせています。 地元観光ガイドによる案内も実施しております。(要予約) 丸岡城跡は、昭和24年の発掘調査によって推断された天澤寺の「加藤清正墓碑」とともに、昭和38年に山形県指定史跡となりました。。