加藤清正の

加藤清正と日蓮宗

清正公は熱心な法華経信者として知られています。ここでは、日蓮宗と加藤清正の関係についてご紹介します。

加藤肥後守清正

加藤肥後守清正略年表
和暦 西暦 記事
永禄5年 1562 6月24日、尾張国愛知郷中村にて藤原氏の家系を継ぐ清忠、伊都の嫡子として誕生。幼名夜叉若、虎之助
元亀元年 1570 9歳の時、近江の長浜城に秀吉を訪ね近習となる。
天正4年 1576 15歳で元服、170石の旗本に取り立てられ、虎之助清正となる。
天正11年 1583 賤ヶ嶽の一番槍などの勲功で3000石に加増、虎之助から主計頭清正となる。
天正16年 1588 27歳で肥後半国の領主となる。25万石公領。
文禄元年 1592 文禄の役で朝鮮外征、第2軍として釜山に上陸、東道を進み、京城を経て、威鏡道、兀良哈まで平定、不敗の将として鬼上官と呼ばれた。朝鮮の2王子左右大臣ら200余人を捕虜とした。
清正が大山のふもとに布陣した折りに有名な虎退治の一件があった。
慶長2年 1597 慶長役の再征軍の第1軍、蔚山城の籠城12日間、5万の明軍に苦戦した。8月 秀吉逝去により、7カ年に亘る文禄、慶長の役は終結、清正熊本に帰還。
慶長5年 1600 関ヶ原戦、清正東軍として家康に組す。
慶長6年 1601 論功行賞で肥後全土の領主、肥後11郡、豊後3郡73万1840石、表高は54万石であった。実禄では前田利長、結城秀康に次いで3位。
熊本城の築城に着手。
慶長16年 1611 家康、秀頼 二条城会見後、海路肥後に帰国の船中発病、6月24日熊本城で逝去、清正50歳。法号 浄池院殿永運曰乗大居士

加藤肥後守忠廣

加藤肥後守忠廣略年表
和暦 西暦 記事
慶長5年 1600 清正の嫡子、忠廣誕生、幼名虎藤、母は肥後南郷の住人、初代玉目丹波守の娘で清正公の槽糠の妻正応院。忠廣の妹あま姫は紀伊大納言頼宣に嫁す。あま姫から出生した紀伊2代目光貞の三男が8代将軍吉宗であま姫の孫に当たる。
慶長16年 1611 清正逝去の時、虎藤は11歳。人質として江戸屋敷にいた。
慶長18年 1613 亡父清正の封を継ぎ、従五位下肥後守
元和6年 1620 従四位下侍従、将軍秀忠の1字を貰い忠廣と改名
寛永9年 1632 幕府から21カ条の詰問状が届き、忠廣出府するも入府は許されず池上の本門寺で老中の評定を待つ、忠廣の義兄徳川頼宣登城して将軍家光と密議、御三家会議の結果、肥後54万石の大大名から、出羽国庄内に配流、酒井忠勝へ1万石の捨扶持で預かりの身、忠廣の長男 光正は飛騨の高山の金森重頼へ、次男 正良は上州沼田の真田家へ預かり。忠廣は母堂正応院と庄内丸岡館に謫居
慶安4年 1651 6月17日、母堂正応院(清正夫人)丸岡館で病死、丸岡屋敷に土葬される。法名 正応院殿曰怡大徳尊
承応2年 1653 母堂逝去後2年、配流生活22年忠廣も病にかかられ、故郷の肥後に帰国することなく、酒井摂津守忠当に見とられて、54歳にて逝去。
法名: 帝光院殿澄誠覚曰源大居士
 人間万事唯無常 身似明星西又東
 三十六年如一夢 覚来荘内破簾中

忠廣作の漢詩は丸岡館で読まれたものでその心中がうかがわれる。