加藤家の家紋

加藤家の家紋

加藤家の紋は、清正の甲冑に用いられている「蛇の目」が有名ですが、
他にも「桔梗」紋や「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていました。
「蛇の目」は戦に、「桔梗」は慶事に、「折墨」は文化的な事にと、三種類の家紋を用途によって使い分けていたようです。 ここでは各々の家紋の由来などについてご紹介いたします。

加藤家の蛇の目紋

清正が何故「蛇の目」紋を使うようになったかは不明ですが、父・加藤清忠が斉藤道三の影響で日蓮宗に信仰があり、父の代から「蛇の目」の紋を使っていたからでしょうか?

ところで、「蛇の目」紋は単純明快で極めて印象が強く、分かりやすいということは、戦場においても覚えられやすく、大将が見ても一目で誰だということが分かるといいます。
さらに、この印はひとつの霊示で単なる模様ではなく、いわば呪符の意味合いもあるようです。
意匠的にはヘビの目を紋にしたものですが、戦場で弓の弦を巻く籐製の輪がこの形をしていたこともあり、昔は弦巻といった時代もありました。

加藤家は藤原北家道長流と称していたことから「蛇の目」の紋を使用しているという説もあります。名古屋市中村区の農民でしたが、藤原北家につながる系図を作り上げたからでしょうか。

加藤家の桔梗紋

関白となった豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に当時5500石余りの侍大将だった加藤清正を肥後北半国19万5000石の領主に大抜擢しました。

秀吉は、清正が肥後に赴くにあたり、前年に改易した讃岐の尾藤知定(びとうともさだ)の武具・調度一切を清正に与えています。 清正にとって、侍大将から領主へと大出世ですが、当然、それに相応しい兵力や道具は不足していたことに秀吉が配慮したのだと思われます。

その尾藤家の紋が「桔梗」であったことから、清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使うと共に、 旧尾藤家の家臣300名余りを家臣として召し抱えていたころから、彼等も誇りを傷つけられることないよう配慮し、自分の家紋にしたといわれ、 家臣は存分に働いたと言われています。

加藤家の折墨紋

熊本城宇土櫓の紋

熊本城の頬当御門(ほほあてごもん)の横にそびえる宇土櫓(うとやぐら)の軒にある丸瓦には、3種類の瓦が混在しています。加藤時代の桔梗紋、細川時代の九曜紋(くようもん)、 火難除けの巴紋(ともえもん)です。

ちなみに、最古の櫓として残るのは関ヶ原の戦い以後の慶長6年(1601年)前後に建てられたこの宇土櫓と福山城伏見櫓(伏見城からの移築)です。


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家紋(かもん)

家紋とは、特に日本において古くより出自、即ち自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章です。

家紋は、単に紋所(もんどころ)や紋とも呼んだりもします。

日本だけで、241種、5116紋以上の家紋があり、 今日採取されているだけで2万近くの家紋が確認されています。