加藤家の家紋

加藤家の家紋

加藤家の紋は、清正の甲冑に用いられている「蛇の目」が有名ですが、
他にも「桔梗」紋や「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていました。
「蛇の目」は戦に、「桔梗」は慶事に、「折墨」は文化的な事にと、三種類の家紋を用途によって使い分けていたようです。 ここでは各々の家紋の由来などについてご紹介いたします。

健磐龍命と加藤清正

肥後熊本には、他国から最新の農耕技術を移植して、民百姓の生活を潤わせて感謝されて、神様に昇華された方がお二人おいでになります。

阿蘇に大和、天孫国の最新弥生式農耕技術を移植した健磐龍命(たけいわたつのみこと)=阿蘇大明神と加藤清正こと清正公です。

健磐龍命は日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神です。神武天皇の子である神八井命の子として皇統に組み込まれていますが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神と見ることが出来ます。

健磐龍命の伝説
健磐龍命は、祖父である神武天皇の命を受けて阿蘇山へ行き、外輪山の上から目の前に広がる湖を眺めてその広大さに感心して、そこに水をなくして田畑を造ろうと考えました。 そこで、水をなくすために外輪山の一部を蹴破ろうとしましたが、最初に挑戦したところ、なかなか蹴破ることができませんでした。それは、山が二重になっているからで、以後、その場所は「二重(ふたえ)の峠」と呼ばれるようになった。 別の場所で挑戦したら、今度は見事に蹴破ることに成功したが、そのはずみで健磐龍はしりもちをついてしまい「立てぬ」と叫び、以後、その場所は「立野」と呼ばれるようになった。 また、蹴破ったところからは、湖水が一気に西の方に流れ出て、数匹の鹿が流されてしまったことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。 湖水が引くと、底から巨大なナマズが現れ、湖水をせき止めていたので、健磐龍は刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れていった。

加藤家の桔梗紋

関白となった豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に当時5500石余りの侍大将だった加藤清正を肥後北半国19万5000石の領主に大抜擢しました。

秀吉は、清正が肥後に赴くにあたり、前年に改易した讃岐の尾藤知定(びとうともさだ)の武具・調度一切を清正に与えています。 清正にとって、侍大将から領主へと大出世ですが、当然、それに相応しい兵力や道具は不足していたことに秀吉が配慮したのだと思われます。

その尾藤家の紋が「桔梗」であったことから、清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使うと共に、 旧尾藤家の家臣300名余りを家臣として召し抱えていたころから、彼等も誇りを傷つけられることないよう配慮し、自分の家紋にしたといわれ、 家臣は存分に働いたと言われています。

加藤家の折墨紋

熊本城宇土櫓の紋

熊本城の頬当御門(ほほあてごもん)の横にそびえる宇土櫓(うとやぐら)の軒にある丸瓦には、3種類の瓦が混在しています。細川時代の九曜紋(くようもん)、 加藤時代の桔梗紋、火難除けの巴紋(ともえもん)です。